最終更新:2023.06.03
・数えきれないほど火砕流を頻発した雲仙普賢岳噴火の始まりは・・・ 2023年6月3日
・6.3火砕流とグリッケン氏 2021年6月3日
・雲仙普賢岳火砕流の概要 2020年6月3日
更新2023.06.03
数えきれないほど火砕流を頻発した雲仙普賢岳噴火の始まりは、1990年11月17日に始まった同山頂部からの小規模な噴煙の立ち昇りでした。
雲仙普賢岳噴火は、1991年5月20日に溶岩ドームが初めて確認され、以後激しい噴火に移行しました。溶岩ドームが表面に出て崩れ落ちると火砕流となり、大きく崩れると大規模な火砕流が発生し、その繰り返しが数年間も続きました。火砕流の回数は、地震波形をカウントすると1万回を超えただろうとされています。
噴火初期の小規模な噴煙が上がっている間は、火山性地震が継続し溶岩が地下から上昇してくる期間にあたっていました。 5月20日には溶岩ドームの溶岩そのものが山頂に姿を現したのですが、極めて印象的なものでした。この溶岩の塊りが斜面を転がると、自ら破砕されて火砕流のもとである火山灰になるというメカニズムが議論されました。
更新2021.06.03
あれから30年経ちました.
雲仙普賢岳噴火は,1990年11月17日に始まり,翌年5月に噴火が激しくなり,同年6月3日16時ごろ,溶岩ドームが崩壊しそれまでで最大級の火砕流が発生,本体の上部は火砕サージとなって通称“定点”一帯を襲いました.火砕流を正面から撮影・観察しようと集まっていた多くのマスコミ関係者やタクシー運転手などから,43名の死者・行方不明者が出てしまいました.
その後,溶岩ドームが発達しては崩落し,大小さまざまな規模の火砕流が発生し続けました.毎日10回以上の崩落が起こり,火砕流の発生につながりました.火砕流の発生数は莫大なものになりました.こうした火砕流からはしばしば火山豆石や凝集火山灰(集合火山灰)が発生しました.その発生の条件や量などについては大野ほか(1995)で詳細に検討されています.是非ご参照ください.
・大野希一・遠藤邦彦・宮原智哉・陶野郁雄・磯 望 (1995) 雲仙岳1992年噴火における火山豆石の生成条件: 雲仙岳噴火とその噴出物,第2報. 火山, 40(1), 1-12.pdfはこちら(外部リンク)
雲仙普賢岳6.3火砕流による犠牲者の中に3名の外国人がいましたが,その1人,ハリー・グリッケン氏はアメリカの地質調査所(USGS)から日本に来ていた若い火山学者でした.
彼は1980年に発生したセントへレンズ火山噴火を体験していました.1980年セントへレンズ噴火は,成長を続けていた溶岩ドームが突然爆発を起こし,マグマの蓋にあたる溶岩ドームが激しいブラーストとなって流下したため,蓋のなくなったマグマは引き続いて吹き出し,大規模な火砕流を発生させました.
USGSはセントへレンズの向かい側の丘の上で溶岩ドームの成長過程を測量していました.
セントへレンズ噴火の当日,本来ならグリッケン氏が測量の当番でしたが,同僚のジョンストン氏に代わってもらっていました.溶岩ドームの向かい側の丘はブラーストの直撃を受け,グリッケン氏の代わりにジョンストン氏が犠牲になってしまいました.
このことはグリッケン氏の中で極めて重い心象として残されました.彼はジョンストン氏の代わりに,セントへレンズ噴火の解明や火山学に貢献したいと考えました.
セントへレンズ噴火に基づいて,“Directed blast” という極めて爆発的で激しい,超音速で岩塊や砂が移動する現象が解明されていました.グリッケン氏は同様の現象が他の火山でも認められないかを調査するため,日本にやってきて火山地質学的な調査を進めていた最中,6.3大火砕流の犠牲となってしまいました.彼には何度か相談を受けたこともあって,残念な気持ちがことさら強く致します.
長井大輔氏(雲仙岳災害記念館)からの寄稿に遠藤が加筆したものを掲載します
2020.06.03
1990年11月17日に始まった雲仙普賢岳噴火は,1991年5月20日に溶岩ドームが初めて確認され,以後激しい噴火に移行しました.
同24日には初めての火砕流が起きていました.
当時,島原市北上木場町にはたくさんのマスコミ関係者が噴火の状況を撮影に来ていました.
その中でも火砕流が正面に見られる位置は,カメラを構えたマスコミでいっぱいになっており,この位置は通称“定点”と呼ばれていました.
その下流に農業研修所があり,地元の消防団が詰所として滞在,地域の監視にあたっていました(図1,2).
[図2は,測量法に基づく国土地理院長承認(使用)R 1JHs 928]
同年6月3日16時ごろ,溶岩ドームの崩壊が生じてそれまでで最大級の火砕流が発生し,水無川の谷を流下しました.
火砕流本体は水無川に沿って(写真の左手に)流れ下りましたが,本体の上部は火砕サージとなって北上小場の定点一帯を襲いました(写真の撮影地点の方向).
このため43名の死者・行方不明者が出てしまいました.この中にはアメリカとフランスの火山学者 計3名が含まれています.
写真の農業研修所跡は,火砕流・火砕サージによって焼失し,現在土台のみ残して保存されています(写真1,2).
この雲仙普賢岳の火砕流は,溶岩ドーム崩壊型と呼ばれるタイプですが,火砕流の発生が目の前で頻発したもので,繰り返された溶岩ドームの成長と崩壊の過程が九州大学火山観測所を中心に詳細に記録され,また多くの機関・研究者により噴火の推移や特徴が研究されました.
さらに,6月3日火砕流のように火砕サージが同時に発生し,多くの人命が失われましたが,その現場からギリギリのタイミングで生還された人々の証言に基づき,火砕サージの実態が詳細に研究されています(荒牧・谷口,1997など).
火砕流が発生すると,写真3のように火砕流から上空に舞い上がった火山灰が降ってきて写真のように真っ暗になります(1992年9月25日の例).
また5年近くの長期にわたり様々な被害がもたらされました.
この噴火による降灰は島原市内などの街中では直ぐに水道水を掛けて流されましたが,郊外や市街地周辺の林地や寺社境内の一部にはそのまま降り積もりました(図3).
島原市街地は 眉山 の陰になるため,火山灰の厚さは薄くなっています.市街でも車で走行中にフロントガラスに火山灰がベタッと付着して前方が見えなくなったり,坂道ではスリップしやすくなったりしました(写真4,5).
いずれも火山灰に大気中の水分が多量に含まれていたためです.
雲仙普賢岳の噴火災害で得られた研究成果や災害を後世に伝えるため,土石流の被害の中心であった安中地区に雲仙岳災害記念館がつくられました.
同館は2018年に展示リニューアルしており,4K映像で見られる「平成大噴火シアター」やドローン映像で上空からの平成新山などを観察できる「雲仙岳スカイウオーク」,ジオラマの上を立体的に火砕流が流れる「平成噴火ジオラママッピング」など新しい展示が充実しています.
詳しくは,雲仙岳災害記念館のHP(https://www.udmh.or.jp/)を参照ください.
また,雲仙岳を中心とした島原半島は,日本では最初にユネスコ世界ジオパークに認定(島原半島世界ジオパーク:http://www.unzen-geopark.jp)されており,周辺のジオサイトなども充実しており,見所の多い地域ですので皆さんぜひお訪ねください.
引用文献
荒牧重雄・谷口宏充(1997)1991年6月3日雲仙普賢岳の火砕流による災害;火砕流の破壊力-雲仙普賢岳の例(平成7-8年度科学研究費補助金研究成果報告書:研究代表者 荒牧重雄),1-41.
磯 望・陶野郁雄・遠藤邦彦(1996)雲仙普賢岳噴火に伴う降下火山灰層.西南学院大学児童教育学論集,22巻,2号,p.75-90.
【長井大輔・遠藤邦彦】
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