遠藤邦彦・石綿しげ子・杉中佑輔・野口真利江・是枝若奈 (NPO法人首都圏地盤解析ネットワーク)
最終更新2024.10.18 改訂2024.9.20 初出2020.04.22
私たちが東京の下町の上空から西方を見渡すことができたら,図1のような武蔵野台地の地形を眺めることができる.もちろんこの様に色分けはされていないが,地形の大きな枠組みを知ることができるに違いない.
色分けは同じ年代のものになされているので,それぞれが形成された順を追って行けば,武蔵野台地の地形がどのようにして形成されてきたのかを知ることができるはずである.
図1を一見すると,武蔵野台地の地形は,赤褐色で塗られた都心部の新宿や渋谷付近の台地群と,青梅付近から半分広げた扇のように広がる扇状地からなっていることが分かる.赤褐色の台地は所々で切れて扇状地の続きが流れ下っている.赤褐色の台地は海水準が高かった時代にできた海岸段丘で,扇状地は多摩川が形成した地形である.
図1 3Dで俯瞰する武蔵野台地と周辺の地形
東から西方を俯瞰.図2を3Dで表示したもので,縦方向を強調している.
[この図の作成には,国土地理院長の承認を得て同院の基盤地図情報を使用した(承認番号:令元情使第660号)]
図1は武蔵野台地北部の上野駅~赤羽駅付近の上空から,西方の青梅付近を見下ろしたもので,武蔵野扇状地の地形がよくわかる.青梅は多摩川が山間部を出て平野部に出る位置にあり,武蔵野扇状地の成り立ちを考える時に極めて重要な位置を占める.武蔵野台地の主体をなしているのは,その標高約190mの青梅付近を扇の要とする武蔵野扇状地と立川扇状地であり,これら扇状地は関東山地を流れ下った多摩川が青梅の東方に形成したものであることが明瞭に読み取れるだろう.現在の多摩川は,この扇状地を削り込んで,その南縁部を扇状地とは無関係かのように流下しているが,帯状に細かく区分された武蔵野台地の地形の要の方向をたどっていくと,どれも標高190mの青梅付近に収斂するのである.どれもといったが,図1には扇状地が細い帯状に色分けされている.色ごとにその形成時代は異なっている(後述).
図2 武蔵野台地とその周辺の地形区分(最新版)
武蔵野台地は遠藤ほか(2019)を基に,大宮台地は中澤・遠藤(2002),下総台地は杉原(1970),相模原台地は久保(1997)を参考に作成.白地の部分は沖積面および未区分の範囲
[この図の作成には,国土地理院長の承認を得て同院の基盤地図情報を使用した(承認番号:令元情使第660号)]
私たちは武蔵野台地の地形を新たに区分した図2を作成するにあたり,国土地理院から公開されているデジタル標高モデル(注1)を用い,1mごとの等高線の入った地形図を作成した.よく使われる国土地理院の2.5万分の1の地形図よりはるかに詳しい地形図である.この地形図や同じデータから様々な強調等を加えた地形図を用いて,地形の区分を行った.同時に,従来から各地形の年代を決定するための多くの調査が行われており,そうした調査結果と1m等高線地形図から作成した地形区分を照らし合わせて,細分された区分単位の年代を求めた.「第四紀研究」という専門誌に掲載された遠藤ほか(2019)は,その詳細を検討し記載した論文であるが,内容的には専門家向けであるため,図2,図3で代表される地形区分図などについて解説を加えるものであるが,合わせて遠藤ほか(2019)ではあまり触れることのできなかった点についても述べる.
この図3には青梅を扇の要(扇頂部という)とする扇状地と,新宿や渋谷のある淀橋台地や荏原台地などの武蔵野台地東部にある海岸段丘とがある.海岸段丘は横浜の下末吉台地と同じ時代のものであるので,下末吉面,あるいはS面とよばれる(後述).
さて,皆さんには図3の拡大版をぜひ見て頂きたい.全体図では1m等高線は見にくいが,拡大版の方では読むことができる.拡大版をさらに拡大してご覧いただきたい.
*等高線の見方についての注意
扇状地のように緩く傾斜する平坦な地形上の等高線は,同心円状のきれいな等高線が並行して並ぶはずである.しかし実際は等高線はジグザグしている.流水による浸食の影響や,人為的な影響もある.扇状地の平坦面が形成された後に小河川が発達するなど,様々な変化が生じる.地形区分の基本は各平坦面が形成された時の面を想定しているので,面が形成された後に生じた小起伏(浅い谷など)や人工的改変は,元に戻して考える必要がある.ここには個人差が生じる可能性が強いと言える.《―――扇状地や―――面という表現については注2参照》
図3(図2の拡大版)
NW(北西部)
SW(南西部)
NE(北東部)
SE(南東部)
凡例
注1 《デジタル標高モデル》
航空レーザ―測量によって,非常に正確な測量が可能になっている.国土地理院は水平的な位置と標高をデジタル標高モデル(DEM)として公開している.
注2 《―――扇状地や―――面という表現について》
海底や,河川の周辺には平坦面が形成される.実際に平坦部をもつ台地を淀橋台などとよぶが,現実には時間の経過とともに浸食が進み,地表は起伏をもつようになる.淀橋台のようにかなりの起伏をもっていても,堆積した時の平坦面を復元できる.このように堆積時の平坦面を基準として地形の発達を考えるのが通例であり,S面(下末吉面),小平面などの呼び方をする.元の平坦面を想定したもので,形成期とは元の面が形成された時と限定できることになる.これに対して,―――扇状地という呼び方はその地形のでき方(成因)を表現した用語であり,武蔵野扇状地であり,また武蔵野面(武蔵野段丘面)でもある,というように用いることができる.
★拡大版(図3) 特に【北西部】について
青梅市をはじめとする多摩川扇状地の扇頂部(青梅からおよそ5kmの範囲)の多摩川渓谷部では,多摩川が下刻した狭い峡谷の中に完新世の段丘群や薄い関東ローム層を載せる青柳面などが狭い範囲に分布する.青柳面など扇頂部においてはそれ以前の扇状地面に累積して形成され,きわめて複雑である.このため,扇頂部については,遠藤ほか(2019)を若干改めている.このため北西部においては,拡大していただき(1mコンターが見える状態にして),以下の説明を参考にしていただきたい.扇状地面・扇状地性段丘面の区分は色分けして示しているが,記号も付しているので参考にしていただきたい.
多摩川扇頂部においてはTc-1面(立川1面)・Tc-2面(立川2面)以来,累積型の地形発達を示してきたが,青柳面から下刻型に移行し,拝島面,天ヶ瀬面,千ヶ瀬面と続く.福生付近で立川面を若干切り込む青柳面は,上流に向かい切り込みを失って,扇頂部の表層の面に連続する.一方,圏央道の青梅インター付近から,入間インター(狭山台)に向かって広がる面は,青柳面と地形的に連続し分けることができない.なお、立川3面(Tc-3面)と青柳面(Ay面)は同じものである.三芳インター,川越インター方面にM面やTc面が存在するが,扇状地面が累積型を示す傾向の強い扇頂部では,河床高度が上昇するタイミングで,入間市や川越市方面に多摩川が溢流した結果である.
図4はRCマップとよばれる最近考案された地形図である.図4を見ると,関東平野の西側を区切る丹沢山地や関東山地の麓には同様の扇型の地形が並んでいる.山地から河川によって運搬された礫(径が2㎜以上の粒子)が堆積してできたものである.(南から:相模川(水源:富士山3776m),多摩川(大菩薩嶺2057m),荒川(国師ヶ岳2475m)など).
また,関東山地の前面には扇状地との間に,多摩川と荒川の間など,緩く東に高度を下げる丘陵地帯が認められる.相模川と多摩川の間には多摩丘陵,多摩川と荒川の間には,阿須山丘陵(飯能丘陵),高麗丘陵,岩殿丘陵,比企丘陵など,多摩川付近には,草花丘陵,香住丘陵,狭山丘陵など.これら丘陵の頂部には礫層が残っている場合があり,元は扇状地であった可能性が強い(鈴木,2000,など).また,狭山丘陵や多摩丘陵の扇状地礫層の下位には海成の上総層群が認められる.
図4 RCマップで見る首都圏の西縁の山地と麓の扇状地
埼玉県南部戸田市付近から富士山の方向を見る.
縦を10倍,200mまでは10mごとに,200m以上は100mごとに色付けを繰り返している.最初の赤~紫色の帯が標高100m,山際の2つ目の赤~紫色の帯が標高200mにあたる.《NPO法人首都圏地盤解析ネットワークHP》
[この図の作成には,国土地理院長の承認を得て,同院の基盤地図情報を使用した(承認番号:令元情使第928号)]
東京下町上空から関東山地(西方)を俯瞰した図5-a~eの5枚の図に多摩川の流路変遷と地形形成過程の概要を示す(遠藤ほか,2019,2023a〜c,2024などに基づく).
多摩川が形成した扇状地の地形は,青梅の約7㎞東方に狭山丘陵があるために複雑になる.多摩川はここで狭山丘陵の北へ進むか,南へ進むかを選ばねばならない.所沢市,入間市などが位置するオレンジ色の扇状地(金子面と呼び,この中では最も古い)は狭山丘陵の北側だけに分布する.後にその中央部を多摩川が流れたために,その浸食の結果南北に分かれているが,この古い扇状地を復元すると図5-aのようになる.この扇状地を古期武蔵野扇状地とよぶ.2段に分けられ,年代は約25万年前および18万年前とされている.所沢の市街地はこの古期武蔵野扇状地の上にある.
多摩川は現在は多摩丘陵の北縁部に沿って流れているが,かつては多摩丘陵はずっと北まで広く,多摩川はその北側,すなわち武蔵野台地の中央を流れていた(古多摩川).その前には狭山丘陵の北側を流れていた.古多摩川から現在の多摩川に至る流路の変遷を,5枚の武蔵野台地を東方から俯瞰した図5に示した.
図5 古多摩川・多摩川の流路変遷と,各時代の武蔵野扇状地の復元(各図とも北は右側)
[本図の作成には国土地理院長の承認を得て同院の基盤地図情報を使用した(承認番号 令元情使 第660号)]
図5-a K面(古期武蔵野扇状地 ~20万年前以前)
図5-aにはK面の分布を示す.このKは金子台からとられたもので,金子台や所沢台からなる古期武蔵野扇状地の範囲を示す.入間市から川越市の間には後に多摩川が流下した跡が残るが,もともとは古い扇状地が古多摩川によって形成された.つまり,古期武蔵野扇状地は多摩川が所沢~入間~川越方向に流下していたことを示す.同時に立川方面への流路があった可能性は否定できない.
図5-bでは,多摩丘陵は武蔵野台地の中央部まで広がっており,古多摩川はその北側を流れていた.
東京層の下部の時代には,新宿付近から品川方面に古多摩川の谷が確認された.この谷を上流に追うと扇状地礫層につながり,青梅付近から流下したものと考えられる.東京層下部の時代の後には海水準は上昇し,下末吉海進,広大な古東京湾の形成の下で,下末吉台地,荏原台,淀橋台,大山台,徳丸台,和光台の原形となる海底面を形成した.
図5-b 15~12万年前(下末吉期,東京層堆積期)
下末吉期の前半には武蔵野台地の中央を横切る谷地形(代々木-高輪埋没谷)が存在し,古多摩川が関東山地から青梅付近で台地部に流下していた.13~12万年前の下末吉海進期には関東平野に広がる古東京湾が存在した.図中のKの領域には下末吉期以前の古期武蔵野扇状地が広がっていた.
図5-cは9万年~6万年前に形成された新期武蔵野扇状地(単に武蔵野扇状地ともよぶ)の分布を示す.図5-bの時代と同様,ここでは多摩川は狭山丘陵の南側に流路を変え,広大な扇状地を形成した.つまり,多摩川の主流は,入間市側(金子台)への流路から立川方面に大きく切り替わった.これには立川断層の活動(山崎,1978;鈴木,2000)が絡んでいる可能性が強い.
図5-c 9~6万年前(武蔵野期,新期武蔵野扇状地の時代)
前の時代の下末吉期の海底はS面となり,青梅からこの地域に流下する古多摩川は武蔵野台地中央に武蔵野扇状地を形成した.8.5万年前には古多摩川は現在の目黒川沿いに流れ,淀橋台と荏原台を切りはなした.7.5万年前にはさらに南側に移動し,仙川面・久が原面を形成した.この時期の末期には河床が上昇し,鶴瀬方面に溢流した.
9万年前に形成された小平面は,中央線が長く直線を示す国立駅のやや東から東中野駅付近まで20㎞余りにわたり起伏のない平滑な地形を連続させる.
この部分の扇状地は武蔵野面(M面)と呼ばれるが,図3に示されるように,小平面(ピンク色),目黒面(橙色),石神井面・仙川面(青色),田柄面・深大寺面(水色),黒目上位面(緑色),黒目下位面(薄緑色),中台面・十条面(紫色)の9段に細分される.ピンク色の小平面はこの中では最も古く,約9万年前である.
13~12万年前に海水準の上昇があってS面ができた後,多摩川による扇状地の形成が進み,まずこの小平面が形成された.最も広く,また9面の中では最も高い位置にある.
小平面の後,9万年前から6万年前の間に短冊状の細長い段丘面が次々と形成されたのは,小刻みな上がり下がりを伴いながら基本的には低下していった海水準の変動のためである(当時は寒冷な最終氷期の前半にあたる).中台面(紫色)の時代には海水準は今より100m近くも低下していたと考えられている.
図5-dに示す通り,5万年~1.2万年前には,青梅を扇頂とする立川扇状地(図1,図3の黄色・黄緑色)が立川市に向けて広く発達し,新期武蔵野扇状地の上流側を浸食してしまった(上流部では上を覆って隠してしまった).図5-cと図5-dを比較すると浸食された(隠された)部分が分かるように,現存する武蔵野扇状地は,青梅から12㎞程下流側から現れる.図1~図3を見ると,M1面やM2面はその扇頂部が立川面に浸食されて,青梅から出発するようには見えないのはこの浸食の結果である.
図5-d 5~2万年前(立川期)
古多摩川の流路はさらに南側に移動し(淡黄色の部分),海水準低下に基づき武蔵野台地より低い立川面(立川扇状地,扇状地性段丘面)を形成した.この時期にも河床上昇により鶴瀬方面に溢流.
図5-e 現在【完新世】
完新世には多摩川の上流側では下方浸食が強まり,完新世の段丘面が形成された.緑色で示すこの時代の多摩川は立川面の多摩丘陵寄りを流下.
その多摩川による浸食の痕跡は国分寺崖線とよばれる明瞭な崖として有名である(図6).この崖線は,国立駅付近から東に向きを変え,国分寺を経て,武蔵野台地の南縁沿いに約20㎞も続く.同図には立川面と沖積低地の間の府中崖線も示す.
図6 国分寺崖線と府中崖線のイメージ図
(礫層の上の褐色部は関東ローム層)
(小金井市・三鷹市〜府中市・調布市付近をイメージしたもの)
主に東京の都心部が位置する海岸段丘面は,南から田園調布台,荏原台,淀橋台,小さいが大山台,和光台,徳丸台などとよばれる(図7).これらの分断された台地は扇状地ではなく,13~12万年前に海水準の上昇があって海岸~海底に形成された海岸段丘である.
これらをあわせてS面と呼ぶ.図7には12万年前の海岸線の位置を推定して示した(青の実線).これらS面は,武蔵野面に比べて時代が古い分,縦横に谷が発達していて,もともとは存在した平坦部はごく一部に残っているだけである.都心部に坂道が多いのはこのためである.
図7 約12万年前の海岸線(青色実線)の推定
[本図の作成には,国土地理院長の承認を得て同院の基盤地図情報を使用した(承認番号:令元情使第660号)]
古期武蔵野扇状地,海岸段丘面(S面),新期武蔵野扇状地,立川扇状地は,関東ローム層とよばれる褐色の砂混じりの泥で一様に覆われている.時代が古い面程関東ローム層は厚く,また,年代決定に使われるテフラが含まれる.この関東ローム層は箱根火山や富士火山,北関東では赤城火山,浅間火山などから飛んできた火山灰が降り積もった後,時代を経て風化が進んだものである.
扇状地面であれば関東ローム層の下に礫層がある.礫層は厚さ5m前後のことが多い.古期の扇状地面では礫層が厚くなる傾向がある.
S面の場合には通常海岸部に堆積した砂層がある.またその下位にはやや深い海に堆積した泥(シルト・粘土)が堆積する場合がある(合わせて東京層と呼ばれる).こうした礫層や泥層にもテフラが挟まれることがあり,それを手掛かりに年代が決定される.
すでに 4.多摩川の流路変遷 で説明したように,かつては多摩丘陵の位置は現在よりずっと北まで広がっていた.それは武蔵野台地の地下に伏在する2つの埋没谷の存在から明確になった(遠藤ほか,2023,2024).この2つの埋没谷は図8-aに示されるように,代々木-高輪埋没谷と三鷹-世田谷埋没谷である.代々木-高輪埋没谷は図9に示されるようにS面やM面の地下に認められる幅広い谷で,谷底にしっかりした礫層がある.上流側に追跡すると当時の扇状地礫層につながる.代々木-高輪埋没谷には上流から古多摩川が流下した.一方の三鷹-世田谷埋没谷は規模が小さく三鷹一帯では細く浅くなる.この2つの谷は下末吉海進時に海が浸入し,海成層で満たされた(図8-b).三鷹-世田谷埋没谷に古多摩川が流下した痕跡は認められない.したがって,この谷は多摩丘陵の中に形成された谷であって,次の武蔵野礫層の時代に浸食され,図8-cのようにかつて存在した三鷹まで広がっていた多摩丘陵は古多摩川によって浸食されたものと考えられる.
図8 (a)15〜13万年前,(b)13~12万年前,(c)9~5万年前の地形復元図(遠藤ほか,2023,2024に基づき作成)
下末吉期初期には2つの埋没谷があったことを示す.
(a)(b)の“浸食された多摩丘陵”の範囲(ハッチのかかった緑色)は,(c)では武蔵野扇状地(茶色)に置き換わっている.多摩川の流路も南に移動した.両図には参考までに現在の多摩川の位置や主要JR路線を示した.
図9 武蔵野台地を南北に横切る概念的断面図
代々木‐高輪埋没谷と三鷹‐世田谷埋没谷が東京層の下部,武蔵野礫層の下に埋もれている.(遠藤ほか,2023に基づき作成)
図2,図3,図9に示すように,立川市の多摩川付近から狭山丘陵南縁沿いに金子台を経て阿須山丘陵まで,南東―北西方向に21㎞伸びる立川断層は活断層として山崎(1978)によって研究されてきた.断層変位が阿須山丘陵,金子台,M1面,Tc-1〜3面にみられ,いずれも北東側が隆起していることから,平均変位速度0.36m/1000年,1回の地震時の変位量約1.8m,再来間隔は約5000年と推定されている(山崎,1978).最新の活動は約1800年前(鈴木,1988)とされるが,過去の活動履歴は不明である.ただ,山崎(1978)によると上総層群に属する仏子層が70m変位しているとされるので,単純計算では35万年間活動したことになる(鈴木,2000).
立川扇状地においては,Tc-2面(立川2面)を切っているが,扇状地面(Tc-2面)はたわんでおり,断層面は明瞭ではなく,撓曲崖として地表を変位させた活断層とみなされる(鈴木,2000).
このような立川断層の活動を抜きに多摩川上流部の地形の変遷を論じることは不可能である.例えば,上述のように古多摩川は20万年前頃には狭山丘陵の北側の金子台を含む川越~鶴瀬方面に流路を持ち,広いK面(古期武蔵野扇状地)を形成した.その後,古多摩川は狭山丘陵の南側に流路を移し,おそらく下末吉期前半の古多摩川河道,新期武蔵野扇状地を形成した.この流路変更は狭山丘陵側の隆起,狭山丘陵の南側の沈降を示す立川断層の変位の傾向と矛盾がなく,18万年前から15万年前~10万年前に活動があるならば,流路変更を説明することが可能である.
立川断層が走る立川扇状地の立川~扇頂部についても,Tc-2面を変位させる撓曲崖が地形発達に大きな影響を与えていることは間違いない.青梅付近の扇頂部から立川付近から北側に伸びる国分寺崖線の延長部の間,M面が失われたのも,立川断層の変位と関連した現象であろう.
図10 小平市~立川市一帯の地形区分と立川断層(遠藤ほか,2019による)と断面図の位置(破線)
青梅層(青梅砂礫層)について
寿円(1964)は青梅市の東青梅から羽村市一帯で武蔵野礫層や立川礫層の下位に認められる埋没谷を埋める堆積物を青梅砂礫層と呼んだ(植木・酒井,2007では青梅層とした).その分布は角田(1999)によって明らかにされた.上記のようにK面の時代に古多摩川は入間市側に流下していたことから,この流路が立川市側に転換された時代の多摩川(古多摩川)によって運搬・堆積された礫層である可能性がある.武蔵野礫層の下位にあるので,武蔵野扇状地東部において武蔵野礫層や下末吉層上部の下位にある埋没谷の礫層につながる可能性が強い.この場合,下末吉層の下部(MIS
6〜MIS 5.5)にあたる.
図11や図12にボーリングデータに基づく立川市~府中市一帯の東西断面図を示す.図11には立川断層の推定位置を示した.
図11 芋窪街道に沿う南北断面(立川-芋窪)
図12 武蔵野台地を横切る地質断面図(府中―小平―清瀬)
図13はグローバルな海水準変動と該当地域の地形や地層の発達状況を示したものである.
13~12万年前の海水準の上昇はグローバルなもので,MIS 5.5(MIS 5eともいう)の間氷期である.この時の海は関東平野全体に広がり(下末吉海進),淀橋台を代表とする東京層からなるS面を形成した.東京層は千葉や埼玉では木下層と呼ばれている.
この後,海は徐々に低下していき,最終氷期に移るが,その前半の武蔵野期は海水準の低下はそれほど著しくはなく,武蔵野扇状地はこの時期に形成された.その中間に成増面(大宮面)が形成されている.最終氷期の後半は立川期にあたり,海水準は大きく低下して,武蔵野扇状地を深く切り込む立川扇状地(立川面)が形成された. このように,各地形の形成は海水準変動とよく対応していることを見る必要がある.
図13 海水準変動,テフラ,および段丘面や扇状地面との関係[町田(2009),上杉(1976) などを基に編集した遠藤ほか(2024)に基づく]
―年代が分かっているテフラ(火山灰)によって海岸段丘面や扇状地面の年代を推定し,さらにその時の海水準変動との関係を明らかにする―
遠藤邦彦・千葉達朗・杉中佑輔・須貝俊彦・鈴木毅彦・上杉陽・石綿しげ子・中山俊雄・舟津太郎・大里重人・鈴木正章・野口真利江・佐藤明夫・近藤玲介・堀伸三郎(2019)武蔵野台地の新たな地形区分.第四紀研究,58,6,353-375.
遠藤邦彦・須貝俊彦・杉中佑輔・石綿しげ子・隅田まり・野口真利江・関本勝久・鈴木正章・大里重人・近藤玲介・中尾有利子(2024)武蔵野台地における中・後期更新世の地形・地質と古地理変遷.研究紀要,59,109-142.
遠藤邦彦・須貝俊彦・隅田まり・石綿しげ子・近藤玲介・杉中佑輔・鈴木正章・中尾有利子・野口真利江・関本勝久・中山俊雄(2023a)武蔵野台地におけるボーリング試料に基づく中・後期更新世の地質層序と古環境―基準ボーリングコアの設定を中心に―.研究紀要,5,153-183.
遠藤邦彦・大里重人・石綿しげ子・小森次郎(2023b)解説 多摩川の薄層扇状地と軟岩の侵食.GaNT研究ノート,3,1-10.
遠藤邦彦・杉中佑輔(2023c)解説 かつて多摩丘陵は武蔵野台地の中央まで広がっていた ー東京層と“世田谷層”から考えるー.GaNT研究ノート,3,11-14.
寿円晋吾(1964)武蔵野台地の各段丘礫の大きさについて.地理学評論,37, 272-273.
久保純子(1997)相模川下流平野の埋没段丘からみた酸素同位体ステージ5a以降の海水準変化と地形発達.第四紀研究,36,147-164.
町田 洋(2009)南関東の43万年前以降の地形・地質:概説.デジタルブック最新第四紀学.
中澤 努・遠藤秀典(2002)大宮地域の地質.地域地質研究報告(5万分の1地質図幅),産総研地質調査総合センター,41pp.
杉原重夫(1970)下総台地西部における地形の発達.地理学評論,43,703-718.
角田清美(1999) 羽村市を自然地理学の立場から調べる.羽村市郷土博物館紀要,Vol.14,92-122.
鈴木毅彦(1988)立川断層にともなって生じた古霞湖のトレンチ調査.活断層研究,5,71-76.
鈴木毅彦(2000)多摩川・荒川間の丘陵・台地・低地―武蔵野台地を中心に.日本の地形「関東・伊豆小笠原」(貝塚ほか編),232-239.
植木岳雪・酒井 彰(2007) 青梅地域の地質.地域地質研究報告(5万分の1地質図幅),産総研地質調査総合センター,189p.
上杉 陽(1976)大磯丘陵のテフラ.関東の四紀,No.3,28-38.
山崎晴雄(1978)立川断層とその第四紀後期の運動.第四紀研究16,261-246.
*************以下初出版*************
解説:首都東京の地形 ―武蔵野台地の区分(最新版)を紐解く―
NPO法人首都圏地盤解析ネットワーク
更新2020.04.22
私たちが東京の下町の上空から西方を見渡すことができたら,図1のような武蔵野台地の地形を眺めることができる.もちろんこの様に色分けはされていないが,地形の大きな枠組みを知ることができるに違いない.
色分けは同じ年代のものになされているので,それぞれが形成された順を追って行けば,武蔵野台地の地形がどのようにして形成されてきたのかを知ることができるはずである.
図1を一見すると,武蔵野台地の地形は,褐色で塗られた都心部の新宿や渋谷付近の台地群と,青梅付近から半分広げた扇のように広がる扇状地からなっていることが分かる.褐色の台地は所々で切れて扇状地の続きが流れ下っている.褐色の台地は海水準が高かった時代にできた海岸段丘で,扇状地は多摩川が形成した地形である.
図1 3Dで俯瞰する武蔵野台地と周辺の地形
(東から西方を俯瞰。図3を3Dで表示したもので,縦方向を強調している)
[この図の作成には,国土地理院長の承認を得て,同院の基盤地図情報を使用した(承認番号:令元情使,第660号)]
図1は武蔵野台地北部の上野駅~赤羽駅付近の上空から,西方の青梅(オウメ)付近を見下ろしたもので,武蔵野扇状地の地形がよくわかる.青梅は多摩川が山間部を出て平野部に出る位置にあり,武蔵野扇状地の成り立ちを考える時に極めて重要な位置を占める.武蔵野台地の主体をなしているのは,その標高約190mの青梅付近を扇の要とする武蔵野扇状地と立川扇状地であり,これら扇状地は関東山地を流れ下った多摩川が青梅の東方に形成したものであることが明瞭に読み取れるだろう.現在の多摩川は,この扇状地を削り込んで,その南縁部を扇状地とは無関係かのように流下しているが,帯状に細かく区分された武蔵野台地の地形の要の方向をたどっていくと,どれも標高190mの青梅付近に収斂(シュウレン)するのである.どれもといったが,図1には扇状地が細い帯状に色分けされている.色ごとにその形成時代は異なっている(後述).
図2 RCマップで見る首都圏の西縁の山地と麓の扇状地
埼玉県南部戸田市付近から富士山の方向を見る
縦を10倍,200mまでは10mごとに,200m以上は100mごとに色付けを繰り返している.最初の赤~紫色の帯が標高100m,山際の2つ目の赤~紫色の帯が標高200mにあたる.《NPO法人首都圏地盤解析ネットワークHP》
[この図の作成には,国土地理院長の承認を得て,同院の基盤地図情報を使用した(承認番号:令元情使,第928号)]
図2はRCマップとよばれる最近考案された地形図である.図2を見ると,関東平野の西側を区切る丹沢山地や関東山地の麓には同様の扇型の地形が並んでいる.山地から河川によって運搬された礫(径が2㎜以上の粒子)が堆積してできたものである.(南から:相模川(富士山3776m),多摩川(大菩薩嶺2057m),荒川(甲武信ヶ岳2475m)等).
図3 武蔵野台地とその周辺の地形区分(最新版)
武蔵野台地は遠藤ほか(2019)1)を基に.大宮台地は中澤・遠藤(2002)2),下総台地は杉原(1970)3),相模原台地は久保(1997)4)を参考に作成.白地の部分は沖積面および未区分の範囲
[この図の作成には,国土地理院長の承認を得て同院の基盤地図情報を使用した(承認番号:令元情使第660号)]
拡大版
私たちは武蔵野台地の地形を新たに区分した図3を作成するにあたり,国土地理院から公開されているデジタル標高モデル(注1)を用い,1mごとの等高線の入った地形図を作成した.よく使われる国土地理院の2.5万分の1の地形図よりはるかに詳しい地形図である.この地形図や同じデータから様々な強調等を加えた地形図を用いて,地形の区分を行った.同時に,従来から各地形の年代を決定するための多くの調査が行われており,そうした調査結果と1m等高線地形図から作成した地形区分を照らし合わせて,細分された区分単位の年代を求めた.「第四紀研究」という専門誌に掲載された遠藤ほか(2019)2)は,その詳細を検討し記載した論文であるが,内容的には専門家向けであるため,図3で代表される地形区分図に絞って,解説を加えるものである.
この図3には青梅を扇の要(扇頂部という)とする扇状地と,新宿や渋谷のある淀橋台地や荏原台地などの武蔵野台地東部にある海岸段丘とがある.海岸段丘は横浜の下末吉台地と同じ時代のものであるので,下末吉面,あるいはS面とよばれる(後述).
さて,皆さんには図3の拡大版をぜひ見て頂きたい.全体図では1m等高線は見にくいが,拡大版の方では読むことができる.拡大版をさらに拡大してご覧いただきたい.
*等高線の見方についての注意 扇状地のように緩く傾斜する平坦な地形上の等高線は,同心円状のきれいな等高線が並行して並ぶはずである.しかし実際は等高線はジグザグしている.流水による侵食の影響や,人為的な影響もある.扇状地の平坦面が形成された後に小河川が発達するなど,様々な変化が生じる.地形区分の基本は各平坦面が形成された時の面を想定しているので,面が形成された後に生じた起伏(浅い谷など)は,埋め戻して考える必要がある.ここには個人差が生じる可能性が強いと言える.
2020.04.22
この多摩川が形成した扇状地の地形は,青梅の約7㎞東方に狭山丘陵があるために複雑になる.多摩川はここで狭山丘陵の北へ進むか南へ進むかを選ばねばならない.所沢市、入間市などが位置する黄色の扇状地(金子面と呼び,この中では最も古い)は狭山丘陵の北側だけに分布する.後にその中央部を多摩川が流れたために,その侵食の結果南北に分かれているが,この古い扇状地を復元すると図4-1のようになる.この扇状地を古期武蔵野扇状地とよぶ.2段に分けられ,年代は約25万年前および18万年前とされている.所沢の市街地はこの古期武蔵野扇状地の上にある.
図4 各時代の武蔵野扇状地を復元した図(各図とも北は右側)
[本図の作成には国土地理院長の承認を得て同院の基盤地図情報を使用した(承認番号 令元情使 第660号)]
4-1 古期武蔵野扇状地の時代(25万,18万年前)
4-2 新期武蔵野扇状地の時代(9万~6万年前)
4-3 立川扇状地の時代(5万~1.2万年前)
図4-2は9万年~6万年前に形成された新期の武蔵野扇状地(単に武蔵野扇状地とよぶ)の分布を示す.ここでは多摩川は狭山丘陵の南側に流路を変え,広大な扇状地を形成した.中央線が長く直線を示す国立駅(クニタチ)のやや東から東中野駅付近まで20㎞余りにわたり起伏のない平滑な地形を連続させる.
この部分の扇状地は武蔵野面(M面)と呼ばれるが,図3に示されるように,小平面(ピンク色)、目黒面(橙色),石神井面(濃紺色),仙川面(紺色),田柄面(青色),深大寺面(薄青色),黒目上位面(緑色),黒目下位面(薄緑色),十条面・中台面(紫色)の9段に細分される.ピンク色の小平面はこの中では最も古く,約9万年前である.《--扇状地や--面という呼び方については注2参照》
13~12万年前に海水準の上昇があってS面ができた後,多摩川による扇状地の形成が進み,まずこの小平面が形成された.最も広く,また9面の中では最も高い位置にある.
小平面の後,9万年前から6万年前の間に短冊状の細長い段丘面が次々と形成されたのは,小刻みな上がり下がりを伴いながら基本的には低下していった海水準の変動のためである(当時は寒冷な最終氷期の前半にあたる).中台面(紫色)の時代には海水準は今より100m近くも低下していたと考えられている.
図4-3に示す通り,5万年~1.2万年前には,青梅を扇頂とする立川扇状地(図1,図3の黄緑色)が立川市に向けて広く発達し,新期武蔵野扇状地の上流側を侵食してしまった(上流部では上を覆って隠してしまった).図4-2と図4-3を比較すると侵食された(隠された)部分が分かるように,現存する武蔵野扇状地は,青梅から12㎞程下流側から現れる.その多摩川による侵食の痕跡は国分寺崖線(コクブンジガイセン)とよばれる明瞭な崖として有名である.この崖線は,国立駅付近から東に向きを変え,国分寺を経て,武蔵野台地の南縁沿いに約20㎞も続く.
図5 国分寺崖線のイメージ図(礫層の上の褐色部は関東ローム層)
図1には,青梅から出発するようには見えない部分がある.武蔵野台地の北縁部,荒川の低地に面する扇状地の末端部に細い紺色や紫色の帯をなしている.紺色で塗られた大宮台地と同じ時代のもので,荒川・利根川が形った大宮台地と同じ向きになる.紫色の部分も荒川や入間川が形成したと考えられる.東上線はほぼこの地形に沿って走る.つまり,武蔵野台地には多摩川ではなく,荒川や入間川が形成した部分もあるということになる.
東京の都心部が位置する海岸段丘面は,南から田園調布台、荏原台,淀橋台、小さいが大山台,和光―徳丸台などとよばれる.これらの分断された台地は扇状地ではなく,13~12万年前に海水準の上昇があって海岸~海底に形成された海岸段丘である.
これらをあわせてS面と呼ぶ.図6には12万年前の海岸線の位置を推定して示した(青の実線). これらS面は,武蔵野面に比べて時代が古い分,縦横に谷が発達していて,もともとは存在した平坦部はごく一部に残っているだけである.都心部に坂道が多いのはこのためである.
図6 約12万年前の海岸線(青色実線)の推定
[本図の作成には国土地理院長の承認を得て同院の基盤地図情報を使用した(承認番号 令元情使 第660号)]
古期武蔵野扇状地,海岸段丘面(S面),新期武蔵野扇状地、立川扇状地は,関東ローム層とよばれる褐色の砂混じりの泥で一様に覆われている.時代が古い面程関東ローム層は厚く,また,年代決定に使われるテフラが含まれる.この関東ローム層は箱根火山や富士火山,北関東では赤城火山,浅間火山などから飛んできた火山灰が降り積もった後,時代を経て風化が進んだものである.
扇状地面であれば関東ローム層の下に礫層がある(図7-1).礫層は厚さ5m前後のことが多い.古期の扇状地面では礫層が厚くなる傾向がある.
S面の場合には通常海岸部に堆積した砂層がある.またその下位にはやや深い海に堆積した泥(シルト・粘土)が堆積する場合がある(合わせて東京層と呼ばれる:図7-2).こうした礫層や泥層にもテフラが挟まれることがあり、それを手掛かりに年代が決定される.
図7-1 武蔵野台地を横切る地質断面図(府中―小平―清瀬)
図7-2 淀橋台(S面)の地質断面図 左:新宿区河田町 中央:国立競技場 右:代々木公園
13~12万年前の海水準の上昇はグローバルなもので,MIS 5e(MIS5.5ともいう)の間氷期である.この時の海は関東平野全体に広がり(下末吉海進),淀橋台を代表とする東京層からなるS面を形成した.東京層は千葉や埼玉では木下(キオロシ)層と呼ばれている.
図8 海水準変動,テフラ、および段丘面や扇状地面との関係
―年代が分かっているテフラ(火山灰)によって海岸段丘面や扇状地面の年代を推定し,さらにその時の海水準変動との関係を明らかにする―
この後,海は徐々に低下していき,最終氷期に移るが,その前半の武蔵野期は海水準の低下はそれほど著しくはなく,武蔵野扇状地はこの時期に形成された.その中間に成増面(大宮面)が形成されている.最終氷期の後半は立川期にあたり,海水準は低下して,武蔵野扇状地を深く切り込む立川扇状地(立川面)が形成された. このように,各地形の形成は海水準変動とよく対応していることを見る必要がある(図8).
注1 《デジタル標高モデル》 航空レーザ―測量によって,非常に正確な測量が可能になっている.国土地理院は水平的な位置と標高をデジタル標高モデル(DEM)として公開している.
注2 《--扇状地や--面という表現について》 海底や,河川の周辺には平坦面が形成される.実際に平坦部をもつ台地を淀橋台などとよぶが,現実には時間の経過とともに侵食が進み,地表は起伏をもつようになる.淀橋台のようにかなりの起伏をもっていても,堆積した時の平坦面を復元できる.このように堆積時の平坦面を基準として地形の発達を考えるのが通例であり,S面(下末吉面),小平面などの呼び方をする.元の平坦面を想定したもので,形成期とは元の面が形成された時と限定できることになる. これに対して,-―――扇状地という呼び方はその地形のでき方(成因)を表現した用語であり,武蔵野扇状地であり,また武蔵野面(武蔵野段丘面)でもある,というように用いることができる.
引用文献
1)遠藤邦彦・千葉達朗・杉中佑輔・須貝俊彦・鈴木毅彦・上杉陽・石綿しげ子・中山俊雄・舟津太郎・大里重人・鈴木正章・野口真利江・佐藤明夫・近藤玲介・堀伸三郎(2019)武蔵野台地の新たな地形区分.第四紀研究, 58,6.
2)中澤努・遠藤秀典(2002)大宮地域の地質.地域地質研究報告(5慢分の1地質図幅),産総研地質調査総合センター,41pp.
3)杉原重夫(1970)下総台地西部における地形の発達.地理学評論,43,p703-718.
4)久保純子(1997)相模川下流平野の埋没段丘からみた酸素同位体ステージ5a以降の海水準変化と地形発達.第四紀研究,36,p147-164.
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