GaNTでは,「東日本大規模水害を引き起こした台風2019年19号」(旧:トピックス>天候異変と気象災害),「二子玉川付近を歩いてみた」(旧:地盤なう>Report)など,2019年の台風19号を契機として問題になってきた自然災害や環境問題にかかわりの深い多摩川に沿う地形について様々な角度から取り上げ,レポートを重ねてきました.このレポートを1つにまとめてみましたので,改めて通してご覧ください.
なお,このレポートの執筆に際しては多くの会員からの情報や考えに基づいて取りまとめを行いました.
1.国土地理院の治水地形分類図や土地条件図から読み取れること2019.11.6更新
2.立川面の存在は何を意味するのか2019.11.6更新
3.二子玉川付近には立川面は存在するのか? その地形を検討してみよう.2019.11.15更新
4.二子玉川の対岸,および,二子玉川の下流側の地形と地層について2019.12.2更新
5.上流側の立川面とその細分2019.12.18更新
6.青梅付近の地形(続)2020.1.30更新
7.多摩川の側方侵食(側刻)と軟岩2020.2.22更新
7続.薄層扇状地と軟岩の侵食2020.2.28更新
8.東京層と“世田谷層”から考える2020.3.18更新
*この記事は(旧)Report②〜⑧≪多摩川に沿う地形はどうなっているのだろうか? そこから多摩川の流れ方の特性を読み取れるのではないだろうか≫を再編集したものです。
NPO法人首都圏地盤解析ネットワーク
1. 国土地理院の治水地形分類図や土地条件図から読み取れること
多摩川に沿って,調布市付近から世田谷区,川崎市多摩区から高津区・中原区にかけての地域の治水地形分類図を切り取り、若干の記述を加えたのが図1である.台地(武蔵野面と立川面が含まれる)は褐色(オレンジ色)で示され,低地側はうぐいす色の氾濫原,黄色の自然堤防・微高地*,旧河道などを見分けることができる.これによって多摩川に沿う台地と氾濫平野(氾濫原)の地形を眺めてみよう.
1974年に狛江市で起こった多摩川決壊は宿河原堰の狛江側であったが,丁度旧河道が存在したところであった.多摩川の河川敷(標高19~20m)より2~3m高い立川面は浸水しなかった.〔図には堤防を挟んで測線が200m毎にひかれている.数字は河口からの距離〕.
*:微高地:一般面との比高が0.5〜1m程度以上あるもの。
<堤防の種類>
完成堤防:予想される最大流量に対して必要な高さと断面を持つ堤防
暫定堤防:予想される最大流量に対して必要な高さはあるが、完成の計画に至っていない堤防
暫々定堤防:予想される最大流量時の水位より低い堤防
旧堤防:昭和50年代に作られた地形分類図で土堤としている部分
2. 立川面の存在は何を意味するのか
多摩川に沿って武蔵野扇状地の扇頂にあたる青梅付近から立川扇状地が広く発達している.多摩川が5万年前〜2万年前頃に形成したものであるが,現在の多摩川はこの扇状地の南縁に沿って切り込んだ谷を形成しているので,この扇状地は立川段丘面(立川面)とよばれる.この面が立川付近から府中,調布,さらに下流まで延びて,狛江,喜多見付近にまで達する.したがって立川面は河川敷よりかなり高く,厚さ2m~5mの立川ローム層で覆われていて,段丘化後には多摩川が溢れては来なかったことを示す(多摩川の流れが来れば表層のローム層や土壌は侵食されるので).したがって多摩川沿いでは立川面は非常に重要な意味を持っている(広大な面積を占め,多くの都市が立地するが,比較すれば水害のリスクは小さい).ただし,多摩川の河床勾配よりも立川面の勾配がやや急であるため,従来は喜多見付近で見られなくなるとされてきた(河床縦断面図を描くと喜多見の下流で交差し,立川面は河床や沖積低地の下に埋もれている形になる**).
なお、国土地理院の『土地条件図』や『治水地形分類図』では立川面の範囲は台地として一括されており,立川面より高位にある武蔵野面と区別されていない(両図では低地より1m以上高い平坦地を台地とする).その区別は非常に容易であるので,なぜ区分されなかったのかと思う.それは調布市や府中市などでは立川面は多摩川の河床より10m強高いのであるが,その高度差は徐々に小さくなっていき,狛江,喜多見付近では1~2m程度となる.多摩川の水位上昇の程度によっては台地上であっても必ずしもリスクが小さいとは言えなくなるからである.因みに武蔵野面は河床より20m~30mも高い位置にあリ,その間には国分寺崖線という明瞭な崖が続く(国分寺崖線については本ホームページの「地盤なう ♯地盤」の『多摩川がつくった長い崖,国分寺崖線』を参照されたい).治水地形分類図の詳細は国土地理院(https://www.gsi.go.jp/index.html)の「治水地形分類図解説書(https://www.gsi.go.jp/common/000190936.pdf)」を参照頂きたい.
**かなり昔になるが「新編日本地形論(吉川ほか,1973)」のp.145に,貝塚原図として丁度喜多見より下流側に埋没段丘面の分布が示されている.当時は地下のデータが限られていたため概念的に図示したものと考えた方がいいが,以後この考えが踏襲されてきた.
二子玉川や世田谷区の多摩川に面する地域では,この立川面と沖積低地(多摩川やその支流の氾濫原,および縄文海進の時に母体が形成された海岸平野)の比高は極めて小さくなり,あるいはほぼ拮抗する高さとなり,下流部では立川面は沖積層の下に埋没する.喜多見から二子玉川にかけての地域は特にその変わり目の位置にあるのである.
この地域の地形や堆積物についてはすでに詳しく検討されたことがある.川崎市側だけであるが,川崎市から「川崎市環境地質図調査報告書(1981)が刊行されている.さらに,産総研の地質図では,「東京西南部図幅(岡ほか,1984)」において詳しい地質図が刊行されている(地質図Naviから見ることができる).武蔵野台地の地形区分については最近見直しがなされつつある(遠藤ほか,2019)が,立川面については検討に含まれていない.これらも参考にして,当地域の立川面についてさらに見てみよう.
3. 二子玉川付近には立川面は存在するのか? その地形を検討してみよう.
立川段丘面(以下立川面,Tc面)を見極めるには,立川礫層をおおう厚さ数mの立川ローム層を見つけなければならない.地下数mより深いところが何でできているかを知るにはボーリング資料を参考にするのが優れた方法である.かなりのボーリング資料が東京都から公開されているから,それを利用するのが良い(東京の地盤GIS版).ここでは川崎市側のボーリング資料と合わせて検討した.
図3の断面図は,国道246号線(厚木街道)に沿って、瀬田付近から二子玉川のやや北を通り,新二子橋で多摩川を渡り,さらに溝の口駅のやや北で多摩丘陵に至るルートである.
図の柱状図で,オレンジ色が礫層,ピンク色が関東ローム層,水色は泥層,黄色は砂層である.
柱状図の背景の色は地層を表している.薄いオレンジ色は立川礫層と武蔵野礫層,濃いオレンジ色が東京礫層である.水色は東京層(世田谷層),薄紫色は沖積層(A)を示す.
全体に下位に現れる緑色は上総層群で,多摩丘陵はこの100万年~200万年前に海に堆積した泥岩を主体とした地層でできている.当時はこの地域を含めて横浜から東京、埼玉、千葉までに広がるかなり深い海が存在した.その後全体的に陸地になり,過去数10万年間は約10万年の周期で海が入って来たり,引いていったりを繰り返した.図の右手(北東側)は環状八号線が通る瀬田付近で,標高35m前後の武蔵野面(詳しくはM2a面:仙川面)である.約10mの厚さの関東ローム層の下に武蔵野礫層があるが,そのさらに下には東京層(世田谷層)とよばれる12-13万年前の海(下末吉海進)に堆積した地層がある.この台地の脇、丸子川と書いてあるところに大きな崖がある(国分寺崖線とよばれる).国道246号線も田園都市線もこの比高20mを超す斜面を下って,問題の二子玉川付近の低地に至る.
しかし,従来低地とされてきたこの付近の地形は詳しく見ると意外に複雑である.国分寺崖線から野川の間は,標高12~13mの低地であるが,深さ4~5m(標高7~8m)に礫層があって,かなり連続している.野川のそばではこの礫層の上に関東ローム層が乗る.厚さから立川ローム層と判断できるので,この部分は立川面である.しかし,それより丸子川との間にはローム層がなく2~3mのシルト・粘土層が堆積する.国道246号線の周囲のデータを見ると,関東ローム層があるところとないところの両方がある.つまり,ここはかつては立川面(段丘面)であったのが,丸子川が度々氾濫を起こして,立川ローム層を一部を除きはぎとってしまったと考えるのがよいだろう.丸子川を上流にたどると,仙川や谷戸川が合流したものであることがわかる.豪雨時には武蔵野台地から大量の水を集めて,普段は流量がわずかで小さな丸子川に流れ込んでくると思われる.二子玉川は前面(西側)の多摩川とともに,背後(東側)の丸子川からも脅威を受ける位置にある.
はじめに述べた立川面についてまとめておくと,従来喜多見付近までとされてきた立川面は,途中切れ切れながらも二子玉川周辺にまで追跡できることが分かった.治水地形分類図では鎌田という地名のある所まで台地とされているが,確かにこの付近にも氾濫原より若干高い立川面を確認できる(範囲はやや異なるが).同図で氾濫平野(氾濫原)とされてきた丸子川沿いはその通りの地形であり正しい.同図で黄色で彩色された自然堤防・微高地の部分には,立川面が存在するケースが多い.
このように,同図で台地としてオレンジ色に彩色されたところであっても,立川面に該当するところは氾濫原と1,程度の比高しかない,浸水するかしないかギリギリの位置にある.立川ローム層が残されている断片化された立川面は,確かにこれまで多摩川や丸子川(仙川や谷戸川)による洪水を免れてきた場所には違いないが,それは紙一重の差であったといった方がいい.
繰り返しになるが,狛江・喜多見より下流側にも立川面は存在する.しかしこの地域の立川面は周囲の低地(氾濫原)とほとんど高度差がなく,野川,仙川,谷戸川,丸子川等の氾濫を受けて断片化している.「立川面イコール台地」と考えてしまうと,災害リスクの観点からは大きな問題になる.いわば、『洪水時冠水危険台地』なのであるから.
なお,断面図(図3)の河床部分については,北の縁に野川の谷があるものと想定できるが,多摩川河床部にはデータが乏しい.周囲のデータや河床断面図を参考に仮の線を引いておいたが,この説明は次章にまわしたい.
以上の検討結果を地形分類図にまとめてみた(図4).立川面は狛江~喜多見一帯から二子玉川を経て,田園調布の低地部まで細く延びている.今回の作業で改められることになる喜多見より下流側の立川面には同じ黄緑に斜線を施している.この部分は立川面ではあるが,治水地形分類図(国土地理院)の上で台地としてくくるのはさすがに問題が多い.なお、立川面が田園調布の近くまで追跡されることについては古くに指摘がある.野川遺跡の記述に関連して述べられているが,具体的な根拠や図などは示されていない(小林ほか,1971;町田,1971).また,Kubo(2002)では多摩川下流部で立川面が埋没することなどが詳しく論じられている.
図3に戻って,対岸の多摩川の右岸側(川崎市側),溝の口一帯を見てみよう.ここには厚い礫層が上総層群に切り込む幅広の谷を埋めている.これが下流部に発達する顕著な沖積層の埋没谷の上流側延長部にあたる.埋没谷の深さは標高-12mまで,地表から25m強の深度にあたる.この埋積された谷については川崎市環境地質図(1981)によって検討され,この断面に近い高津駅のボーリングコアで,標高-13mに礫層の基底が捉えられている.礫層の下位は上総層群である.図3では-12mをとっているが実際は-13mにあると考えるべきである.
洪水ハザードマップ 2019年台風19号災害においては各地で洪水ハザードマップの有効性が確認された.この地域も世田谷区等から洪水ハザードマップが刊行されている.危険区域等の結果だけでなく,なぜそうなるのかを理解するためには,並行して国土地理院の治水地形分類図や土地条件図などを参考にすることが望ましい.さらに,2019年台風19号による洪水は,その有効性とともに,それらにもまだまだ改善の余地があることも示していると言えるだろう.
4.二子玉川の対岸,および,二子玉川の下流側の地形と地層について
図3に加筆した図3'と図6を並べて再度見てみよう.図3'は図3と同じだが,図3'にはⒶ,Ⓑのような記号が目印に追加されている.
図5に各断面図の位置を示すが,図3‛は二子玉川付近を通る国道246号線沿いの断面である.一方図6は約1.7㎞程下流にあたる第三京浜道路に沿うものである,図7は2.5㎞下流の武蔵新城~雪谷(田園調布のやや南)の断面である.このうち第三京浜道路については,すでに松田(1973)によって断面図が示されている.今回作成した図6とほぼ同様の断面であるが,松田(1973)の断面には河床部分のデータがあるので,図6ではこの河床部分のみを取り入れた.松田(1973)には図3の246号線断面図に極めて近い位置にある田園都市線の断面図も示されていて参考になる.
図3'と図6で,共に顕著なことは多摩丘陵寄りにかなり深い谷があって,礫層など(図3'のⒶ,Ⓑ,Ⓒ,Ⓓ)で埋まっていることである.つまり埋積谷の存在である.埋積谷が形成された順序は立川面の後でなければならない(立川ローム層がないので,同ローム層の後である).この谷は幅約1.2㎞で,地表から約28mの深さがある(基底の標高は-13m).このように深い谷は海水準が低下していた時代につくられたに違いない.246号線の断面ではこの埋没谷が2層の礫層(図にⒷ,Ⓓを付す)によって埋められている.Ⓐの堆積面はかなり平坦で,ここでは溝の口面と仮称しておく.
一方の図6は,国道246号線より約1.7㎞下流に位置する第3京浜道路に沿うものである.南寄りの2本の柱状図は図3'の埋積谷部とよく似ている.谷の幅は他のデータが浅いため推定になるが,礫層の下位に直ぐに上総層群が現れるところ(Ⓔ付近)を縁と仮定すると,約1.2㎞である.基底の標高は約-19mと若干深くなる.図3'と図6の埋積谷はつながった一連の谷であることは間違いない.なお,古い文献であるが寿円(1966)には,「第三京浜の架橋工事の際に,厚さ2mの河床礫の下に,厚さ2~3mの立川礫層が見られた.河床礫は青味がかっていて新鮮で粗粒,立川礫は褐色を帯び古そうに見え,砂や細礫のレンズがある」と書かれている.
Ⓔ地点には立川ローム層が残されている.ここから第3京浜道路料金所にかけて立川礫層が連続するが,立川ローム層は侵食されているところが多い.礫層上面の標高は,5~7m,礫層基底(上総層群上面)の標高は0m前後にそろっている.
このように図3'の国道246号線,松田(1973)の田園都市線,図6の第三京浜道路の3つに共通して現れる谷は,一連の古多摩川が形成した化石谷で,松田(1973)も,この古多摩川による化石谷は「立川段丘形成後,最終氷期の最大海面低下期までに形成された」と考えた.つまり谷を埋める堆積物は沖積層である.
続いて,図7の断面図を見てみよう.多摩丘陵の北縁(新作)付近から南武線の武蔵新城付近を通り,等々力緑地を経て,多摩川を越えて久が原台に至る断面である(位置は図5参照).ここは図3や図5と比べるとやや複雑である.図3'でⒶ~Ⓓとある埋積谷は南端から武蔵新城付近にあり,幅は約1㎞である.この武蔵新城の谷では下位の礫層(Ⓓ)はあるが,その上半部は泥や砂の沖積層になっていて,Ⓑの礫層が見られない.ところが,武蔵新城から武蔵中原にかけて標高0~4m付近に礫層(Ⓗ)が見られる.Ⓑの礫層が埋積谷の範囲から北東側に抜け出したと考えるのがよいようである.すなわち,埋没谷の形成以後ずっと谷の中を通っていた多摩川の河道が,低地の中央~東寄りに移動したものと思われる.その東方,現多摩川との間に薄い礫層が点々と続くのも同様のものであろう.
図3,図6とこの図7の谷がつながった一連の谷であることは,間にあるボーリングデータをチェックすることによって分かる.
図7では武蔵中原から等々力緑地にかけてⒾとマークした礫層が上面の標高で-2m,下面の標高で-6~-7mに発達する.これは,二子玉川付近で上面8~9m,下面3~5m,第三京浜で上面5~7m,下面0m,と徐々に標高を下げてきた立川礫層に相当することは間違いないだろう.
図7にはさらに,複雑な要素が認められる.上記立川礫層の下位にあるⓀを付した泥層で,基底に薄い礫層を伴っている.泥層のN値は10~20で東京層(世田谷区では世田谷層)と考えられるが,ここでは主題でないので,本レポートでの議論は控える.
もう一つは,Ⓙの礫層である.データが少ないので断定はできないが,ここまで立川礫層と呼んできた立川段丘面を立川1面(Tc-1)とすれば,立川2面(Tc-2)の可能性が強い.上流側でも立川1面の南側にやや低位の立川2面が認められている.この立川面の細分に関する問題は後に再度議論する.
以上のように,立川面は狛江-喜多見周辺では標高25m,その対岸の溝の口面は標高22mにあるが,二子玉川付近では,立川面,溝の口面ともにほぼ標高15mとなり,武蔵新城~武蔵中原付近では標高約10mの溝の口面の方が逆転して高くなる.そこでは立川面は沖積層下に埋没していて,あまり明瞭ではないが,標高は約2m程度と推定される.それぞれの地形面の標高の変化については図5の等高線(太線が10m毎,細線は5m毎)に書き込んだ数字で確認いただきたい.いずれにしても,立川面と溝の口面(沖積面)との地形の逆転は多摩川の流れ方に影響しているに違いない.
5.上流側の立川面とその細分
図8によって,多摩川が青梅付近で山間部を出て,立川扇状地を形成し,さらに多摩川が立川扇状地の縁に沿って河口まで流れ下る全貌を確認してみよう.立川扇状地(図の黄緑)はそれ以前に存在した武蔵野扇状地(図ではピンク,ブルーなど5色の細い帯)の上流部を削り取って,武蔵野扇状地の南側に長大な国分寺崖線を形成したことも見ておこう.
立川扇状地は青梅付近ではおよそ標高200mにある.立川付近では約90mとなり,調布付近で約50m,狛江付近で約20mと高度を下げ,田園調布の台地のふもとでは約10mとなって低地の標高と同じになる.さらに下流では立川面は沖積層の下に没して埋没段丘となり,羽田付近では-20m以深になる.
武蔵野扇状地は9万年前頃から6万年前頃の間に形成された.立川扇状地はその後に形成されたのであるが,おそらく4万年前から2万年~1.3万前ごろにかけて形成されたものと考えられている.
ここで立川扇状地が形成された年代について整理しておこう.
山崎(1978)は,立川断層を検討する中で,立川より上流の地形を詳しく検討し,立川面を立川1面,2面,3面に分け,この地域の立川段丘面(本稿での立川扇状地)は,立川2面(Tc-2)と立川3面(Tc-3, 青柳面)が主であるとした.立川2面を覆う立川ローム層にはUGと呼んだ火山ガラスが含まれるが,姶良カルデラの3万年前(当時は2.2万年前とされていた)の大噴火に由来するAT火山灰(姶良・丹沢火山灰の略称)は認められないとした.なお,関東平野のUGやATについては,遠藤・鈴木(1980),鈴木(1991)などの報告がある.
山崎(1978)以前に,立川面を覆うローム層の厚さが上流,下流で異なるため細分されるべきとの考え はあった(町田ほか,1971など).このころの研究の経緯については久保(2007)に詳しい.
例えば,野川遺跡の研究(小林ほか,1971)や野川泥炭層*(千葉ほか,1982)の研究から,調布一帯ではATを含む厚い立川ローム層が存在することは知られていた.野川河川改修工事露頭の野川泥炭層では,礫層の上に泥炭に挟まれたAT火山灰が認められ,調布~狛江一帯の立川扇状地は礫層上にAT火山灰を載せる立川1面に相当するとされた(千葉ほか,1982;遠藤ほか,1983;辻,1992).
写真1は野川泥炭層に挟まれるAT火山灰層の露頭写真であるが(東京の地盤編集委員会,1998の口絵写真2にも掲載されている),ATを挟む泥炭層の下に泥炭質シルト層やスコリア層があり,その下に立川礫層がある.つまり立川礫層の年代としてはATの前なので,Tc-1面ということになる.なお,泥炭層から植生史を検討した辻(1992)は立川3面としたが,それは泥炭層が離水した時代,つまり褐色ローム層が堆積し始めた時代を意味する.
この野川河川改修工事露頭(図10-2;写真1)では,AT火山灰は泥炭層の間にきれいに保存され,真っ黒な泥炭層に挟まれた真っ白な火山灰の帯として見事なものであった.厚さは約6㎝近くあり,湿地に乱されずに堆積した極めて保存の良いもので,当時感激したことが思い出される.ATの下位に数層のスコリア層があり,ATから礫層に至る間は2m近い厚さがある.このように,通常はテフラが乾いた陸地上を覆う場合を想定して,テフラによって地形面の年代を決定するのが原則であるが,泥炭層中にテフラが堆積した時の考え方について触れておきたい.フラッドロームなどテフラが水付き状態で礫層などを覆う場合はかなり多いが,この場合に注意すべきはそのテフラが降下後に再移動・再堆積したかどうかである.再移動・再堆積している場合は,そのテフラの降下後を意味し(降下後ならいつでもいい),必ずしもテフラの降下した時代を意味しない.野川泥炭層の場合は,後に泥炭層となった湿地に乱されずに堆積したもので,一次堆積とみなされる.つまり再移動はない.テフラの降下年代は該当する泥炭層の層位に対して与えられる.立川礫層からみれば,礫層の堆積後におもに4層(薄いものを含めると7層)のスコリア層が降下し,泥炭地が生じた時期にAT火山灰が降下したので,AT火山灰の降下を3万年前とすれば,立川礫層は3万年よりかなり古い年代を示すことになる[因みに鈴木(2000)はTc-1面を約4万年, Tc-2面を3~2万年,Tc-3面を2~1.5万年と考えている].このように,立川ローム層中にAT火山灰が散在するケースよりは野川泥炭層のケースはずっと正確であることになる.換言すれば立川礫層が堆積した年代は,AT火山灰降下前の7層目のスコリア層の層準が最も近い,ということになる.
ここで,この露頭における泥炭層形成の意味であるが,立川礫層の時代に多摩川は武蔵野面を削り国分寺崖線を発達させた.多摩川が流路を南に移した後,国分寺崖線沿いに湧水の供給が多く,野川に供給されるとともに,野川沿い一帯には湿地が形成された.野川泥炭層は,多摩川の南遷後に立川礫層上に湿地的環境が残されたことを示している.その後立川ローム層の上部に覆われた.その地形は周囲の立川(1)面と区別はできないので,ここでは立川礫層が連続することから立川1面とする.野川固有の湿地堆積物がつくる段丘面という可能性もないわけではないが,泥炭層の広がりは不明である.
なお,野川泥炭層にはATを含め合計25層のテフラが挟まれていた.ATを除く24層はスコリア層と判断したが,多くは白色化していて,カンラン石も失われているものが多く,古富士スコリア層との個々の対比は残念ながら困難と思われた.
*1981年に行われた野川護岸改修工事によって野川大橋付近(N35°38’42”,E139°35’5”)で立川ローム層,泥炭層,立川礫層が露出した(地表の標高は約27m).
この西方近くの調布市富士見町の明治大学校地において遺跡発掘調査に伴い,立川面の検討がなされている(上杉・上本,2005;中井ほか,2006など).立川礫層を覆うテフラとしてはAT(Y-117)やその下位のY-108テフラが認められた.大磯丘陵などで確立されたこの時期のテフラ層序が対比された例として重要である.
その後,久保・小山(2010)はATを載せる立川1面の分布範囲を明らかにした.立川より上流部では,国分寺崖線に沿う一部地域を除き,立川2面が広い範囲をカバーしているとした.立川より下流側での立川面がTc-1なのか,Tc-2なのかは,あまり明確な答えが出ていなかったが,久保・小山(2010)では立川から府中,調布においては立川1面が広く分布し,立川2面は多摩川沿いに細く分布することを図示した.この研究ではハンドオーガーを用いて立川ローム層を16地点で採取し,AT由来の火山ガラスをロームから洗い出して,そのピーク位置を確認する分析を行って,AT層準を求めた.
府中から調布一帯では,立川面は多摩川に沿ってやや低い面を伴っている.これが立川2面に相当する可能性がある.言い換えれば立川扇状地はAT 火山灰降下のあと,河床を侵食し始め,河道を南寄りに移動させたことを示唆する.
そこで,久保・小山(2010)を参考にして図8の基になる地形区分図(一部)を修正したのが図10である.微細な地形境界を配慮している.なお,渡辺ほか(2017)は立川断層南部の存在について,変動地形学的観点から検討したが,立川面群のTc-1面,Tc-2面,Tc-3面の分布について異なる見解を示しており,立川より上流部での立川面の細分は今後改訂される可能性が残される.
図10 改訂版 武蔵野台地の地形区分(立川面を中心に)
黄緑色:立川1面,黄色:立川2面,Ay:青柳面,Ay':青柳面より若干高位の面,Hj:拝島面
遠藤ほか(2019)の図4の一部に,久保・小山(2010),等の知見を加えて作成
[本図の作成には国土地理院長の承認を得て同院の基盤地図情報を使用した(承認番号 令元情使 第660号)]
次に図8,図10で立川扇状地と南側の丘陵との間の白地の部分に注目してみよう.ここに青柳面(立川3面)と拝島面等が存在することは,古く寿円(1966)の時代から議論されてきた.鈴木(2000)は,特に青柳面について注目し,青梅より約20㎞上流の氷川では最高位面をなし,礫層も非常に厚く.その縦断形は最も急であることなどから,青柳礫層を沖積層基底礫層(BG)に対比している.青柳礫層や拝島礫層は,果たして下流部につながっていくのであろうか.この問題は,後に最下流部の埋没段丘面を検討する中で論じたい.
なお,多摩川最上流部の段丘地形の発達については,高木(1990)による詳細な検討がなされており,青梅市の立川面以降の段丘地形については角田(1981)に詳しく記載されている.
最近では,Takahashi & Sugai (2018) が多摩川最上流部の段丘面について,支流からの土砂供給の影響が極めて大きく,縦断面にも反映されることを論じており,青柳面の発達との関係で注目される.
このように,青梅より上流側で最高位に存在する青柳面の性格や,それが青梅の出口から広がる扇状地部にどのようにつながるのかは非常に重要な課題である.
これにも関連して,野上(1981)は青梅市の千ヶ瀬から河口(羽田)まで,さらには浦賀水道の沖積層埋没谷の末端までの88㎞にわたって,多摩川(途中で古東京川に合流)の段丘面の河床縦断面形による検討(シミュレーション)を行った.その結果は多摩川の地形発達をほぼうまく説明できるとしている.その中で,最上流部の青柳面は青梅付近の立川面上をoverflowし,10~15㎞付近で段丘面は交差し,その下流では,青柳段丘は立川面の下位に位置し,段丘崖を形成することなどが読み取れる.言い換えると,上流部ではoverflowがあるため段丘崖は見られず,その細分は難しくなっている.またこのように考えると,多摩川が不老川沿いに川越方面に流下した時期がTc-3面(青柳面)の時代であることもよく説明できる.
6.青梅付近の地形
図11は青梅付近の1mコンター図を示したが,主としてこの図を基にして地形区分を入れてみたのが図12である.区分にあたって,青梅駅より上流側の Takahashi and Sugai(高橋・須貝)(2018)の区分(従来の研究例を踏まえ修正したもの)を参考にした.しかし現段階では問題点も多く,あくまでも参考例の一つである.
図12 青梅付近の地形区分案
青梅駅付近より上流側は,従来の地形分類図に修正を加えたTakahashi et al.(2016)を参考にした.
[本図の作成には国土地理院長の承認を得て同院の基盤地図情報を使用した(承認番号 令元情使 第660号)]
青梅駅付近より上流側では青柳面が最高位にあることはすでに述べたとおりである.青梅駅周辺では新しい段丘面によって切られており,上流側の青柳面と,下流側のTc-2面(黄色)との関係は微妙であるが,青柳面がTc-2面にかぶさっているように見えなくもない.
青梅駅より下流側については,山崎(1978)はTc-3面(青柳面)が北側を通って不老川沿いのTc-3面に続くとしている(図12A).岡崎(1967)は青梅周辺の立川ローム層の厚さを詳細に調査し,分布図に示した.この図を見ると礫層を覆うローム層の厚さはかなり変化があり,単純ではない.
一方,青柳面がそのまま青梅駅より下流側全体に広がっているという考えもあろう.青梅付近の扇頂部では,先行して形成された扇状地の上に後からの扇状地がかぶってくるという考えは,野上(1981)の考えに通じるものである.しかし反面,かぶってくる場合には2つの面の間に崖は作られにくく,それを区分するのは極めて至難なことになる.
一方,多摩川沿いでは,羽村のやや上流の小作付近(標高160m付近)からTc-2面よりも1~2m程低い面が現れ始める.これが青柳面にあたるものと考えられる.つまり多摩川沿いでは,小作より上流側では青柳面がTc-2面にかぶっていてもいいという解釈が成り立つだろう.その目で見れば,160mや150mのコンターを見ると,北の不老川沿いの方がやや低い傾向がみられる.図の160の数字の位置付近にTc-2面とTc-3面(青柳面)の境界を入れるとすると、その位置は山崎(1978)のそれに近い.
もう一つ根拠が欲しいところであり,現状でどれが正しいとは言えないが,下記の2説にまとめてみた.
A.山崎説の,青柳面(Tc-3面)は青梅付近から下流部では扇状地の北半分を帯状に進み主に不老川に流下する,
B.青柳面(Tc-3面)は小作付近まではTc-2面を全体に覆っていて,小作付近から現多摩川沿いにTc-2面より若干低い青柳面を形成する.図12Bでは,標高170m~160mあたりまでは,青柳面がTc-2面にかぶさっているというアイデアはありうることだと考える.すなわち,野上(1981)の言う段丘面の交差である.
A.,B.以外にも可能性があるであろうが,今後の実証的な研究を待ちたい.例えば,礫層を覆っている立川ローム層自体の層位の検討など.
2020.2.22補足 ★ここで大事なことは,青梅付近より上流では青柳面(Ay)が最高位にある事で,それは青梅付近の扇頂部においても青柳面以前の扇状地堆積物を覆って青柳面(Ay)が発達していることを示唆し,同様に、青柳面以前にも同様のことが存在した可能性も示す点である.これは狭山丘陵の西縁付近の北側などに武蔵野面(M)の残丘が残されており,周囲は立川面(Tc)であるが,青柳面以前にも武蔵野面(M)を立川面(Tc)が覆っていた可能性を示している.言い換えれば,武蔵野面(M)は国分寺崖線で立川面(Tc)によって侵食されたが,青梅から立川の間,武蔵野面(M)は全くなかったわけでなく,その扇頂寄りでは立川面(Tc)の下に隠されている可能性がある.つまり立川面(Tc)が実際に侵食したのは箱根ヶ崎より下流側だけの可能視が強い(上記残丘から).
7.多摩川の側方侵食(側刻)と軟岩
おそらく多くの人々は図8を見て,広大な武蔵野面(M)や立川面(Tc)を形成した多摩川が,ずいぶんと窮屈なところを流れているが、それはなぜなのだろうという疑問を持つのではないだろうか.
広大な面積を占める武蔵野面群,その南側に同じく広大な面積を持つ立川面(Tc)が発達した.さらにその南側に青柳面(Ay)や拝島面(Hj)が細々と残り,かなり切り込まれた狭い空間に低地面があって,多摩川の流路は一番南の縁にある.通常,河川が一つの方向に片寄る時,地盤の沈降運動の存在を仮定するだろう.しかしこのケースでは南側が沈降するような傾動運動は認められない.
以下に,側方侵食,軟岩,デブリコントロール,“谷は山際を通る”、をキーワードとしてこの問題を考えていこう.
側方侵食
斎藤ほか(1983)は関東平野には立川期の扇状地は多いが,完新世の扇状地がほとんどないこと,扇状地の礫層は薄いことなどを特徴として挙げている.日本の扇状地を体系的にまとめて論じた斎藤(1998)は,礫層が薄い理由として,地殻変動はむしろ隆起傾向にあることをあげている.その結果,多摩川はは側方に移動した.
一方,過去9万年間の実際の経緯を見ていくと,9万年前には多摩川は図8のピンク色に塗られた小平面(M1a)の位置を流れていた.その5万年後には河床は低下して3~4㎞南,立川付近の立川面(Tc)上を流れていた.さらに,その3万年後,1万年前以降にはさらに河床は低下して2㎞南を流れていた.最後の1万年間はさらに南の2㎞の範囲にあった.小平面(M1a)から出発すると,合わせて9万年間に多摩川は7~8㎞も南に移動したことになる.その間の河床低下量は立川付近で約20m(武蔵野面(M)から立川面(Tc)で約10m;立川面(Tc)から沖積低地面で約10m)にもなる.この側方侵食の総移動距離を8㎞と仮定すると,889m/1万年,8.9m/100年,8.9㎝/1年という計算になる.1年にすれば,10㎝未満であるから,あながち無理な数字ではなさそうに思えてくるが,一方向に累積する必要がある.その間の河床低下量を見ると,20m/9万年,2.2㎝/1年となる.
以上のような多摩丘陵の侵食を考える上で,最も参考になるのが図13に示す武蔵野台地の地質断面図である.図13はほぼ武蔵野台地の中央に位置する三鷹・吉祥寺を通る南北方向の断面図で,南は狛江市・調布市付近,北は練馬区大泉学園・和光市付近までである.
図の左側3分の1(中央自動車道より南)には多摩丘陵(推定部)が重ねてあって見づらいが,武蔵野礫層(MG)が直接上総層群(Kz)の泥岩や砂岩を覆っている.礫層の厚さはほぼ一様で,礫層直下の上総層群(Kz)の侵食面はほぼ平滑で南に段をつくりながら高度を下げる.図の左端は多摩川河床である.中央自動車道付近から玉川上水のやや南までは東京層(世田谷層・To)の分布域で,武蔵野礫層(MG)の下に厚さ10m近い海成泥層(きわめて軟弱)が認められ,その基底には薄い礫層あるいは砂礫層がある(東京礫層(TG)に相当する).世田谷区側から北西方向に延びてくる幅1㎞足らずの谷(世田谷埋積谷)を世田谷層が埋めていることになる.この埋積谷を復元したのが図14である.この谷の北側には古くから牟礼の高台と呼ばれてきた,武蔵野面(M)から10m強突き出た古い地形がある.ローム層は周囲より格段に厚く,礫層や泥層(世田谷層よりかなり締まっている)の分布高度の相違から,S面(下末吉面相当)より古い地形面と推定されている.その下位にある上総層群(Kz)の上面高度は25~27mである.この高台の北数100mを過ぎると,上総層群(Kz)の上面高度は急に深くなるとともに,複数の礫層や泥層が発達する.
図14 およそ12万年前(MIS5.5)に三鷹市まで長くのびていた入り江,世田谷埋積谷の範囲を復元した図
[本図の作成には国土地理院長の承認を得て同院の基盤地図情報を使用した(承認番号 令元情使 第660号)]
以上のように,調布-吉祥寺-大泉学園の断面で代表されるように,武蔵野台地における地下の基本構造は,同台地を南北方向に横切る武蔵野線,小金井街道(府中-清瀬),調布-三鷹-東久留米,吉祥寺-大泉学園-和光の各地質断面図(以上は遠藤ほか,2019の図7)や,環状八号線-笹目通り,環状7号線などの地質断面に共通して認められる傾向である.
以上の断面図に認められる特徴から,武蔵野台地における多摩川水系の堆積場は主に武蔵野台地の北半部にあったこと,南半部は主に多摩丘陵の分布域であり,世田谷埋積谷のような小規模な多摩丘陵内の谷が存在したこと,武蔵野期,立川期には多摩丘陵を構成する上総層群(Kz)を,多摩川が一気に側方侵食して広大な武蔵野扇状地(M)や立川扇状地(Tc)を形成したこと,のような従来に比べれば非常に大胆な仮説がふさわしいように思われる.
図15 武蔵野台地の地形区分図を東から西に見た3D図にこの仮説のアイデア重ねた概念図
(小平面(M1a)の始まり頃を想定)
斜線を施した部分は武蔵野面(M)に分類されるが,S面形成期(MIS5.5)あるいはさらに古いサイクルにおいて多摩丘陵を削剥していた部分を示す.S面の範囲(橙色とピンク色)はMIS5.5の海によって波食作用を受けた範囲.[本図の作成には国土地理院長の承認を得て同院の基盤地図情報を使用した(承認番号 令元情使 第660号)]
図16 武蔵野台地の地形区分図を東から西に見た3D図にこの仮説のアイデア重ねた概念図
(仙川面(M2a:南東部の久ケ原台),深大寺面(M2b)の時代を想定)
[本図の作成には国土地理院長の承認を得て同院の基盤地図情報を使用した(承認番号 令元情使 第660号)]
以上の仮説を概念的な図に表現してみたのが図15,16である.武蔵野台地の地形区分図を東から西に見た3D図にこの仮説のアイデアを概念的に描いたものである.図15は小平面(M1a)の始まり頃を想定して描いている.図16は仙川面(M2a:南東部の久ケ原台),深大寺面(M2b)の時代を想定している.
これらの図で,武蔵野期,立川期以降に失われた多摩丘陵および草花丘陵,香住丘陵等の範囲に点を打って区別した.
図15で,失われた多摩丘陵の範囲は2区分されているが,北側(右)が武蔵野扇状地(M)の時代,南側(左)が立川扇状地(Tc)の時代以降に対応する.後述するように多摩川は丘陵の縁に寄り添うように流れる傾向があるので,小平面(M1a)の南限はこの打点域の北限にあたる.久ケ原面(M2a)の時代,図16に示すように多摩丘陵は打点域の中央を分ける線及びその延長を北限としていたため,久ケ原台(M2a)は非常に窮屈なところを流下し得た.もちろん当時,今は多摩川低地を隔てる下末吉台地は多摩川低地までカバーしていて,田園調布台と一体であった.
図15で,三鷹とある付近から新宿とある付近のやや北に,釣り鐘型の斜線を施した部分がある.この部分は武蔵野1a面(M1a)が発達した部分であるが,S面の時代,あるいはそれに先だって多摩丘陵が失なわれていた可能性の強い範囲である.ここには比較的浅いところに上総層群(Kz)が分布するが,武蔵野礫層(MG)の下位にさらに礫層があるか,さらに泥層を含むもうサイクルの堆積物が存在する範囲である.したがって,S面,成増面(N)の時代に上総層群(Kz)を削剥したか,さらに以前から削剥していたか,という領域にあたる.荏原台や淀橋台等を連ねた橙色およびピンク色の部分はS面の海進時に波食作用によって上総層群(Kz)を削剥した部分にあたる(谷埋めの部分も含む).
この様な仮説が何故ありうるのか,幾つかの視点から検討してみよう.
7(続).薄層扇状地と軟岩の侵食
古くから研究されてきた典型的な扇状地は厚さ40m~100mもの厚い礫層を持つとされていた.これに対して,実際には礫層の薄い扇状地が少なくないため,扇状地の定義やその性格をめぐって様々な論議が展開されたが,齋藤(1998)も関東平野等に広く見られる礫層の薄い扇状地を,薄層扇状地として区別し,その要因を挙げている.その一つに扇状地の範囲に軟岩が分布することを特徴として述べている.多摩川の場合,谷口を出たところの地質条件は上総層群で特徴づけられるが,主に前期更新世に堆積した泥岩,砂岩,礫岩で,いずれもハンマーでたたけば容易に崩れてしまう程度の軟岩である.つまり,軟岩が分布していたため,容易に側方侵食が生じたとする.薄層扇状地をはじめ日本の扇状地の特性や研究史についてはこの「日本の扇状地」(齊藤,1998)に詳細に述べられているので是非参照頂きたい.
写真2 2019年台風19号通過後の立日橋近くの多摩川河床(石綿しげ子氏撮影)
一面に広がっているのは上総層群.
2019年の台風19号によって各地で洪水が発生し,甚大な被害が広域に発生した.この時に多摩川でも氾濫,浸水による災害が起こった.この時の多摩川の激流の様子の一端は,多摩川の河原に残されている.写真2は,多摩川中流部,立川市と日野市を結ぶ立日橋(タッピバシ)付近の河原で見られたものである(下流側から上流側を見る.12月15日に石綿しげ子さん撮影;当サイト>GaNT de CAFE(旧:Blog)>しげ子さんのお散歩「台風19号が過ぎ去った河原を見た!」より).台風通過後には増水が認められていないので台風直後の状態を見ていると考えてよい.なお,この時,立日橋のやや下流にある国道16号にかかる日野橋の橋脚は沈下した.台風が通過した12日の翌日、13日にはかなり水位は低下しているが、12日の増水時には高水敷まで洪水流が洗っていたことが明らかである.
写真2には泥岩を浅く掘りこんだ,並行するガリー状の溝(専門家はgroovesと呼ぶ;池田,1998は 縦溝 と呼んでいる)が何列も並ぶ.溝の中には直径3㎝位から10㎝にも及ぶ礫がごろごろしていた.これらの礫は上流の山岳地から運搬されてきた硬岩でできている.台風19号によってもたらされた大量の雨水は多摩川でも激流となって硬い礫を運搬しつつ軟岩の河床を削り込んでいった様を想像するのは難しいことではないだろう.硬岩の礫によってもたらされる侵食力こそ,次に述べる池田(1998)の唱える“デブリコントロール説”の真髄である.
多摩川はなぜ,上記のような側方侵食速度で南に移動しなければならなかったのか?
“デブリコントロール”というのは池田宏氏によって提唱された考え方である(池田,1998).
池田(1998)では,「石川(礫床河川のこと)が軟岩からなる丘陵を側刻しやすい理由」,「石川(礫床河川)が丘陵に寄るのはなぜか」などの項目を建てて説明をしている.
その中で,砂川河川(砂床河川のこと)である鬼怒川や小貝川が台地に寄って流れているのと同様に,礫床河川の場合も,河道は礫に覆われた河床を残して丘陵・台地に寄って軟岩を侵食していくとしている(上記の立日橋付近の河床の通りである).
粗い礫がごろごろしているようなところは流れにくく,滑らかなところは流れやすい.これは流速を求める公式において粗度係数として表現される.多摩川が南に寄っていく原理の一つはここにあるのであろう.河床にわざわざ粗大な礫を配置することがあるのは,侵食をふせぐためである.
実際に多くの扇状地において,河川は扇状地面の脇を流れている.池田(1998)は扇状地が形成されるのはこの河道の位置が寄っていくからなのだ,とまで言っている.
「デブリコントロールを背景に,河道は丘陵際に寄り添い,海水準の長期低下傾向が加わって,武蔵野期・立川期を中心に,一方的な多摩川の南への移動が容易に可能になった」,というのが筆者が抱く仮説である.それは扇状地礫層が一か所にとどまらず,次々と移動する結果もたらされる薄層扇状地の成立に直結する.
1年に10㎝の側方侵食が可能であるならば,府中市にある浅間山が多摩丘陵の残丘として取り残されたことも容易に理解できる.それどころか,8~9万年前には多摩丘陵の北縁が三鷹・吉祥寺付近にあったとしてもさして不思議ではないことになる.
以上は,多摩丘陵が多摩川の側方侵食によって大きく失われたとする考えであるが,一般に失われてしまったものが本当は存在していた,と証明することはやさしくない.証拠が失われているからである.多摩川の流路が武蔵野扇状地,立川扇状地,現在の河道と,順に南に移ってきたのは厳然たる事実であるが,それぞれの直前に多摩丘陵が存在したのか,すでに多摩丘陵は何回か侵食を受けていて最終的にその時に侵食されたのか,これは以上に挙げた数々の状況証拠から判断するしかない.
次に述べるのも状況証拠の一つではあるが,重要な意味を持つと考えている.すでにお気づきの読者がおられると思うが,図15や図16に描かれているように,淀橋台地や荏原台地などのS面においては12万年前にピークを迎えた海進の時にも波浪による侵食によって多摩丘陵が削られた.こちらの方が先行して起こったのである.東京の台地部全体を考える時には,この波食作用も併せて考える必要がある.次の8章で解説する.
注)本稿で呼ぶ多摩丘陵とは,実際にはオシ沼砂礫層で有名なオシ沼面(多摩Ⅱ面)や,御殿峠礫層で有名な多摩Ⅰ面も存在したはずであるが,その削剥域における分布を推定することは難しいので,これらも包括したものである.
その前に台風翌日の10月13日に大里重人氏が撮影した写真を紹介しよう。
写真3 10月13日13:22 日野橋の洗堀による橋脚の沈下(大里重人氏撮影)
橋脚の基礎下が洗堀されたことにより、1m程度橋脚が沈下し、桁がくの字に変形している。 台風翌日のためにまだ水位は高いが、漂着残存物の位置から台風時には桁直下まで水位が上がったことが確認されている。
写真4 11月17日 水が引いた後の日野橋橋脚周りの侵食状況(大里重人氏撮影)
右岸と左岸とでは、橋脚における侵食の位置が異なり右岸側では橋脚の下流側が下方侵食され、橋脚が洗堀により沈下した左岸側では、橋脚の上流側が下方侵食されている。写真は右岸側の橋脚を写したもので、向かって左側が上流部になる。この地域は上総層群の連光寺互層の砂礫層とシルト岩層の互層地域で、傾斜は左岸側(立川方向)に向かって緩く傾いている。
写真5 橋脚に打ち上げられた流木群(大里重人氏撮影)
橋脚に打ち上げられた流木群.
写真6 10月13日12:20 聖蹟桜が丘京王線関戸橋通過時に撮影(大里重人氏撮影)
まだ水位が高い.
写真7 10月13日11:20頃の京王相模原線多摩川(稲田堤)橋梁付近(大里重人氏撮影)
水位は大きく低下し、高水敷が見えている。台風時には京王線鉄橋の桁下(堤防天端1m程度下)まで水位が上昇した。
高水敷にあったフェンス等は流出し跡形もない。
写真8 10月13日13:28 日野橋付近(大里重人氏撮影)
手前階段の堤防天端から1m程度下の所に水位痕跡が見られる。
増水時には高水敷を越していたことが確認できる。
8.東京層と“世田谷層”から考える
12万年前には関東平野には古東京湾と呼ばれる海が広がり,東京では東京層,千葉~埼玉では木下(キオロシ)層が堆積した.グローバルには現在より海水準は8m~10mも高かったとされるMIS5.5の海進である.東京では海に堆積した東京層が23区を中心に全域的に分布するが,世田谷区では“世田谷層”と呼ばれることがある.それは東京層と“世田谷層”の岩相の違いにある.世田谷区内にみられる東京層(“世田谷層”)は,きわめて軟弱な海成泥層で,N値は3~6が普通で,時にN値が1や2ということもあり,沖積層の軟弱な泥層とあまり変わらない.さらに基底部には礫層があるが,厚さ1m程度と薄く,礫混じり砂層となっていることもある.この“世田谷層”は元々は寿円(1966)によって東京層とされていたものであるが,遠藤毅ほか(1996)で“世田谷層”とされたものである.本稿ではこの“世田谷層”が埋積する谷を“世田谷埋積谷”と呼び,すでに図14に分布を示した.このような“世田谷層”(東京層)の性格については,最近,中澤ほか(2019)や植村ほか(2020印刷中)で詳しい検討がなされつつある.
一方,武蔵野台地の東半部に広く分布する東京層は,砂勝ちであることが多く,谷埋め状の部分によく出現する泥のN値は,4~10とかなり高い.基底礫層は5m前後とずっと厚い.この関係を沖積層に置き換えて,多摩川と鶴見川の堆積物の違いを見るとよく分かる.鶴見川に沿う沖積層は軟弱な海成泥層を主体とする.それは鶴見川は多摩丘陵内を流れる河川で礫の供給源は少なく(上総層群にも礫層は存在するが,一部に過ぎない),多摩川は鶴見川の流域に入り込むことはできない,相模川との間にもギリギリの位置に分水界が存在して,相模川も流れ込むことはない.したがって多摩丘陵をつくっている軟岩である泥岩(上総層群)を主体とする器の中に,海成泥層が堆積した.この泥層は周りを透水性の悪い軟岩に囲まれて,水が抜けにくかったものと考えられる(N値の低さの要因).山地から発する多摩川が流入できないため,礫層はごく薄い.
話を“世田谷層”(世田谷の東京層)に戻すと,“世田谷層”も多摩川の流入がない環境で堆積したとすると説明がしやすい(図17).図17の色付けをした部分を見て頂きたい.“世田谷層”は多摩丘陵内にあった谷を埋積したものであることを概念的に示したもので,特に白い部分は検討中である.“世田谷層”以外にも現目黒川沿いなどにも存在した可能性がある.“世田谷層”の場合はその上流は幅を細くしながら三鷹市内の西縁部まで続くので,かつては多摩丘陵が三鷹市内にまで存在して,“世田谷層”の谷もその多摩丘陵の中にあったに違いないという主張になるのだが,それは前回のレポートにおいて多摩川が武蔵野期,立川期,さらにそれ以降と南側への側方侵食を進めてきたという仮説に結び付いている(図14~17).
図17 東京層(“世田谷層”)の入り江が存在した時代
(MIS5.5)の多摩丘陵と,“世田谷層”が埋積する谷(世田谷埋積谷)の分布(復元モデル)
[本図の作成には国土地理院長の承認を得て同院の基盤地図情報を使用した(承認番号 令元情使 第660号)]
“世田谷層”の分布を下流に追うと,田園調布台のあたりでは,その谷は現多摩川沿いの低地地下にあって,立川礫層の下位に礫層と薄い泥層が残されているのみである.細い峡谷をつくっていた可能性が強いが,その後,M3期,立川期に多摩川が現多摩川低地を通る様になってあらかた侵食されてしまったのである.
いずれにせよ、現多摩川下流部の範囲の大半は多摩丘陵(実際はその後に波食作用で波食面が形成され下末吉層が堆積した下末吉面である)で、その中に“世田谷層”の埋没谷部(“世田谷埋積谷”)があったということになる.なお、現目黒川沿いにも同様の埋積谷が存在した可能性が強い.
以上のように,証拠が失われてしまったものに対する推論として,皆さんは如何に感じられたであろうか.
文責:K.E., T.C., S.O., S.I., S.H., Y.S., J.K. & W.K.
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渡辺満久・中田 高・後藤秀昭(2017)変動地形学的特徴に基づく立川断層南部の再確認.地震,70,81-87.
山崎晴雄(1978)立川断層とその第四紀後期の運動.第四紀研究,16, 231-246.
図2は図1の二子玉川付近を拡大したものであるが,さらにいくつか加筆している.図1,図2ともに地形分類は原図のままである.そこに武蔵野面と立川面の文字を加えている.また,河川敷と氾濫原、自然堤防などの堤内地の標高も読み取って示した.河川敷からの比高を大づかみに捉えておくと良いだろう.この区間では旧堤防や暫定堤防,暫々定堤防が設置されているが,説明を加えた.概査によると,2019年の台風19号では,多摩川の水位が上昇し,濁流がほぼ記入した矢印のように暫々定堤防や暫定堤防の外側(堤外地)にある住宅地に浸入したものと思われる.
対岸の平瀬川合流点では,本流の水位の上昇に伴い,平瀬川に逆流した結果,浸水が生じたと推定される.
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